戦死者に対する態度
終戦記念日ですね。
恥ずかしい事ながら、この年になるまで、先の大戦で命を落とした方々に対し、どのような態度でのぞめばいいのか、わかっていませんでした。
しかし、最近になってようやく、それが見えてきたと思います。
僕達は、ただ、偉大な先祖達に、命を投げ打ってこの日本を守ってくれた先祖達に、ただ謙虚な気持ちで、頭を垂れるのみです。
申し訳なかった。
あなたがたを、苦しめてしまい、本当に申し訳なかった。
僕達は、生きている。
それも、相当の幸福を享受しながら、生きている。
貴方達の犠牲を踏み台にして、我々はそれを享受するのだ。
申し訳ない。本当に、申し訳ない。
僕は、さまざまな文献を読み、ようやく、その気持ちになる事ができました。
まだ、靖国へは行っていません。一度は行かなくてはならないと思っています。
どのように祀られているのか、その真実を見極めるために。
ですが、行く前から、一つ考えている事があります。
戦死者は、祀って欲しくなど、なかっただろうと。
兵士達に、戦争の行方を決める権限はありません。
どこで幕を引くか。
それは、最高司令官ただその一人の胸にだけあります。
兵士は、戦の勝敗にかかわらず、つねに犠牲者です。
犠牲がどれだけ小さくなるか?
それは、最高司令官の、ただその一人だけの責任になります。
僕は、戦争そのものを否定はしません。仕方のない戦争だって、あるでしょう。
しかし、仕方のない戦争だからといって、責任までは消滅しません。必ず、だれかに責任はあったはずであり、その人が責任を果たしたかどうか、被害を、犠牲を最小におさえることができたのかどうかは、裁かれねばなりません。
戦争は、問答無用で悪です。
たとえ仕方なかろうと、必要悪であったのだとしても、とにかく悪です。
だれかには、かならずだれかには、その悪の責任があります。
そう考えた時、たとえば特攻隊とは、ただただ犠牲者であったと、そう思えてくるのです。
特攻直前の心根が非常に美しいものであった。
それは認めます。当然です。絶対に、美しいはずです。
しかし、特攻を命じたものは、裁かれねばなりません。
また、どれほど美しかろうと、それを賛美してはいけません。
悲しむべきなんです。謝るべきなんです。そんなことをさせてしまったことを。
日本の戦死者だけではありません。
日本の「侵略行為」によっても、多くの人達が傷つき、命を落としました。
日本の繁栄は、その屍の上にあることも、忘れてはいけません。
日本の繁栄は、特攻隊の、その他の戦死者の、日本軍による他国の犠牲者の、空爆の被害者の、原爆の被害者の上にあります。
僕らは、彼らの一人も助けられなかった自分達を恥じ、犠牲者の悲しみの、せめて何分の一かでも感じ、そして、自分達のできる限り、貴方達の苦しみをもう一度他のだれかに繰り返させたりはしないと、ただそれだけを願い、誓うのみです。
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